2016年5月26日木曜日

写真について、思うこと



荒木経惟の写真展の、オープニング・レセプションに行ってきました。

76歳のバースデイ記念ということで、親交のある哀愁歌謡バンド、ペーソスの演奏があり、その後にケーキが出ました。
ケーキが荒木さんの前に到着すると、みんな一斉に写真を撮り始めました。
混んでいたので、カメラやスマホを頭上に掲げて、なんとか写らないかとやっている。

その光景を後ろから見て、シュールだな、と思いました。
周囲には、壁一面に写真がむき出しで展示されています。
部屋の真ん中にはそれを撮った当人がいて、たくさんの人がスマホを掲げて囲んでいて、さらにそれを写真達が囲んでいるという図。
その場でいちばん見るべきものは、写真だと思うんだけど、誰も見ていない。
写真展で、スマホ撮影。
なんか、写真てなんなんだろう、って。



僕は、写真は見ません。
作品としての、じゃなくて、普段の記録としての写真のことです。
自分が写ってる写真は、一枚も持っていません。
卒業アルバムもとっくに処分しちゃったし、何かで写真をもらっても、いらないから捨ててしまいます。
旅行に行ったって、自分で写真を撮ることは、まずありません。

覚えていたい、と思うんです。
それは、例えば目の前に美しい景色があったとしたら、景色そのものじゃなくて、その時の自分の感情を、なんです。
景色の美しさより、美しいと感じた心の方が、大事だから。

美しい、と思ったら、その感情を味わうことに集中したい。
味わって、消化することで、養分として自分の血肉になる。
そうすることで、自分が変わっていく。
なんて言うと大げさだけど、でもそういうことだと思うんです。


写真を見返して、あの時の感動がよみがえる、とか言うけど、その感動って、「あの時」のものとはどんなに似てても別物じゃないですか。
感動って、自分の中での出来事なんだから、「あの時」の気持ちを薄めたレプリカより、常にその場で新しく沸き起こるものの方が、僕にとっては大事なんです。

同じ光景を見ても、そこから何を感じるかは人によって違う。
例えば、水の入ったグラスを見て、「水だな」とだけ思う人と、水の表面の揺れやグラスの反射から何か特別の感情を思う人と、いろいろです。
その時々によって、同じ人間の中に違った感情が湧いてきたりもします。


後から思い出すため、忘れないために写真を残す、っていう人もいますね。
僕は、写真を見ないと思い出せないものは、思い出す必要はないという考えなんですよ。
景色も、人の顔も、忘れたっていいじゃん。
ある時、何かを美しいと思ったり、誰かを好きだったり、そうした色んな感情が、自分の中には溶けて混ざっていて、それらによって今の自分が出来上がっている。
何が欠けても、きっと今とは違う自分になっていたはず。

誰かが旅行に行って、その写真を見せてもらっても、何が写ってるかより、写真について話す目の前の相手の表情だったりの方に、僕は興味があります。
その人がその写真を撮った時に感じたことが、その人の中にどう作用してどんな風に残っているのか。
写真の美しさより、美しいと思った心の方が、魅力的なんです。
後から思い出すのは、見せてくれた写真ではなくて、楽しそうに(とは限らないけど)話していた相手の顔です。


まあ、今は写真もデータになって、アルバムにまとめて見返す、ということはないでしょう。
日常の記録として気軽にスマホで撮って、量も気にせずためておける。
僕も、iPhoneでは写真撮りますからね。
それは、誰かへの報告のような意味合いです。
SNS用かな。
自分で見返すことはありません。

僕の高校生以降の写真は、たぶん存在しません。
探せば友達が少しは持ってるかもしれないけど。
実家に残っていた子供の頃の写真も、少し前にアルバムごと整理した、って言ってたから、もう残ってないんじゃないかな。
でも、今はネットにアップしてしまえばずっと残るわけだから、僕みたいに写真が存在しないという人は、きっといないでしょう。
もはや写真て、すごく気軽で手軽で、軽すぎてなんでもないものになっている気がします。
写真一枚ごとの意味なんていうのは、古い感覚なんだろうな。



作品としての写真については、全くわかりません。
そりゃある程度は、いいな、すごいな、と思うこともあるけど、写真を見て涙があふれたり立っていられなくなったり、といった経験は皆無です。
写真展に行っても、そこに展示されている写真の良さは分からないんです。

今回の個展とは別のスペースで、昔の写真集『センチメンタルな旅』を復刻したものが展示されていました。

そこからは、写真一枚一枚の良さ、ではなくて、それらを撮っていた荒木経惟の視線、もっと言えば感情の流れみたいなものが、感じられました。
それは僕にとって、写真を見ることについての、大げさに言えば発見でした。

置いてあった写真集をいくつかめくったの中で、『陽子ノ命日』が好きでした。
1日の間に目に映ったものをただ撮っただけ、みたいな。
何が写ってるか、じゃなくて、撮っている人間の思考が、見えてくる気がしました。
たしか黒だけしか写ってないような一枚があって、それなんか、その写真を単体で見ても心には残らなかったと思うんです。
とっても、良かったです。

もちろん、本人が何を思って写真を撮っているのかは分からないし、アラーキー・ファンや、写真の感性に優れた人は、ぜんぜん違ったことを感じるのかもしれませんが。


行ってよかった。
どこにでも、行ってみるもんですね。


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