「笑顔を届ける」という欺瞞

『漁港の肉子ちゃん』を読みました。
じわりと沁みてくる作品でした。
あとがきには、石巻市がモデルになっている、と書いてありました。
物語を書き始めたあとで、たぶん書き終えて発表していない内に、震災があったそうです。
あとがきの最後は、こう終わっていました。

 こんなに愛している作品を、私以外の誰かが読むこと、奇跡みたいなそのことを、知っていた「つもり」にならないで、私は誰かがページを繰る瞬間を、考えようと思います。
 あなたが、「漁港の肉子ちゃん」を読んでくださった、ということを、私はずっと、考えようと思います。 

この文章に感動しました。
小説の向こうには、登場人物たちがいて、その向こうには、モデルとなった実在の人物やインスピレーションとなったモノや景色や記憶がある。
それが作者を通過することで形になり、それを誰かが読む。
読んだ誰かにも何かが入っていく。
どういう形になって入っていくか、何を感じるかは、読み手の性質によって、あるいは同じ読み手でもその時々の環境や状況によって違う。
さらにその、誰かが読むこということについて、作者が思いをめぐらす。



土曜に、熊本でライブをやりました。
何人かと話をしました。
地震からちょうど一か月。
ちょっとした言葉の中にも、不安のような、楽ではない感情が、やはり見えました。
そこで、演奏したんですよね。
ライブ後に話して、いろんな声を聞きました。
僕にとっても、とても貴重で(誤解を恐れずに言えば)感動的な体験でした。

そういうことを、例えば「音楽で笑顔を届けられて良かった!」なんて軽々しい言葉でまとめてしまう人がいる。
僕は、そういう人が嫌いです。
そんな単純で表面的で画一的なことじゃないはず。
それは、考えることの放棄。
美辞麗句で結論づけた時点で、そこから先を想像することが放棄される。
もっともっと、それぞれの感情は複雑なはずなのに、いくら演奏を喜んでくれたからって、その笑顔の奥の一人一人の心に意識を向けることをせず、「いいことしたぜ!」って単純に乱暴にひとまとめにして終わらせてしまえる人が、信じられない。

届けて終わりじゃない。
「届ける」なんて一方通行な言葉は使うべきじゃない。
終わらないはずでしょ。
そこで出会った人達の感情は、ずーっと消えずに自分の中に残るはずでしょ。

なんて薄情で、かわいそうな人だろう。
きっと、他人の気持ちを想像することを知らずに、そこから得る深い感動を知らずに、一生を終えるんだろうな。
だからいつも孤独で、寂しくて自信がなくて、不安でどこか緊張していて。
そういう人は、きっと『漁港の肉子ちゃん』の良さはわからないんだろうな。
かわいそうだな。

(※小説の内容自体は、震災とは無関係です。念のため。)

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