怪我したハトのことを考えた

前回書いた、ハトの件(『怪我したハトに出会った話』)。
よく考えてみると、大したことじゃない。
カラスがハトを食べ(るのかな?)たり、猫が鳥を食べたり、それはきっと、自然界では当たり前のこと。
毎日あちらこちらで起こっていて、でも人間の生活圏とは別の場所での出来事だから視界には入らないだけなんです。

ハトやカラスは、増えすぎだそうです。
大きな視点で見ると、人間の生活にマイナスなのかもしれない。
自然界では、増えすぎた種は淘汰されて数が減らされて、全体のバランスを保つ。
増えすぎのハトを助けることは、そうした流れに逆らうことなのかもしれない。

鳥の群れでは、傷ついて足手まといになった個体は、置き去りにされると言います。
その方が、全体が生き延びる可能性が高いから。
僕が見かけたハトも、そうして仲間から外れた可能性もあります。
特別なことでも残酷なことでもない。


傷ついたハトは、かわいそうなのか。
同じ生き物でも、例えばこれがミミズだったら、感情は動かないはず。
だって、釣りする人なんか、ミミズの体に針を突き刺して、悶え苦しむまま水に投げ入れたりしてる。
自分がその立場だったらと想像したら、地獄の苦しみです。
逆に犬や猫の場合なら、家に連れて帰って手当てする人も、きっといるでしょう。

そう考えていくと、草木は踏んでいいのか、とか、人間だって豚や牛を殺して食べてるじゃん、て話にもなります。
ハトじゃないけど、鳥も食べてるし。
犬を食べるっていう話も聞きます。

たまに肉屋に行くと、思うんです。
鳥や豚や牛を、殺して、解体してる人がいる。
仕事として、きっと毎日、何十年も、その作業を続けてる。
あるいは、どこか山の方では、野生の生き物を仕留めて食べる地域もあるかもしれない。
東京に住んでたって、釣りに出かけて釣った魚を食べたりする。
生き物を殺す行為を、実際に行ってる人も、いるわけです。
彼らは、道ばたで傷ついたハトを見つけたら、どう感じるんだろうか。
どうするんだろうか。


考えていくと、キリがない。
人間は勝手に、際限なく様々な意味づけをしてしまう。
そもそも、「かわいそう」というのは、人それぞれぞれ個人的な、いわば独りよがりで勝手な感情です。
涙が出るときでさえ、実は自分に酔っているんじゃないか、という場合だってある。
「かわいそう」に正当性を求めることは、無理なんです。

結局、感情のどこに線を引くか、という問題なんだと思います。
ヴィーガンや菜食主義者、動物愛護団体などは、その線引きが極端なケースでしょう。
逆方向に極端な線引きをすると、もしかしたら相模原の障害者殺人事件や、ナチスドイツみたいになるのかもしれない。


僕の場合、個人的に関わった相手でないと、一線を超えて心が動くことはありません。
というか、動いたら、それは嘘だと思うようにしています。
感情移入せずに、大きく引いて見ることで、受け流します。
だから、傷ついたハトに対しても、実はそんなに「かわいそう」とは思いませんでした。

ハトだけじゃありません。
どこかで悲惨な事件や事故があっても、同じです。
そりゃ心が動くこともあります。
でもそれは、あくまでも漠然とした感情であって、行動を駆り立てるほどに具体的で強いものではない。
そこまで強い、「かわいそう」と名付けるのもしっくりこないほどの感情は、簡単には生まれない。
自分が直接関わった相手のことでしか、本当の怒りや悲しみは、なかなか湧かないはずです。

感情って、そんなに安売りするものではない。
同情可能な出来事に接するたびに、スイッチを押すみたいに「かわいそう」と思うのは、なんか違うんじゃないか。
その果てには、泣ける理由を探して安っぽい歌や映画を次から次へと消費することになって、どんどん自分の感情が薄まって、自分が自分でなくなってしまう気がします。
「かわいそう」っていうのは、薄まったウソの感情に対する免罪符なんです。
多くの場合は。

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