2016年10月3日月曜日

「世界とは完全に詩的な場所である」

「世界とは完全に詩的な場所である。もしも貴方がそこで詩以外のものを見つけたら、それは有り得ないものを見たということだ。」
穂村弘のエッセイ集『世界音痴』の中にあった一文です。
ちょっと泣きそうになりました。

歌人。
短歌を書く人を、そう呼ぶみたいですね。
僕は短歌は読みませんし、歌人も知ほとんど知りません。
教科書に出てくる以外で名前を知ってるのは、俵万智と枡野浩一くらいです。
もちろん、何かの拍子に短歌を目にしたことはありますが、特別いいなと思ったことはいままで一度もありません。

それが、たまたま、穂村弘の短歌を読みました。
終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
すごくいい。
感動と呼ぶのかわからないけど、ジーンときました。
まだまだ素晴らしい出会いが、あるもんです。
嬉しい。


長谷川豊ブログ騒動には、考えさせられました。
僕も自分のブログで強い言葉を使うことがあるから。
いちおう考えて決断して書いています。
それでも、やっぱり誰かを不快にすることは避けられない。
といって、第三者の目を気にしていたら、何も書けない。
実際、書いた言葉について指摘されることもあります。
逆に、ズバリ書くのがいい、と言われることもあります。

問題なのは、それは誰かを不快にしてまで本当に言いたいことなのか。
言うって、いったい誰にむけて?
社会を変えたいわけでもない。
そもそも何千人もの不特定多数に向けて書いてるブログではないんだし。
それを書くことで、自分はどうしたいのか。
と考えていたら、何も書けない。

これは第三者に向けて何かを発信するときのジレンマです。
音楽だって、たぶん短歌だって、あるいは日々の対人関係においても、このジレンマは必ずついてまわります。
言うのか言わないのか。
どこで線を引くか。
僕の場合は、平均的な日本人と比べると、この線引きが、ゆるいというか、線を越えて行きたい、という気持ちが強い。

行きてる限り、誰にも迷惑をかけない、ということは不可能です。
不快にさせてもいいんです。
さすがに悪意をもって迷惑行為をすることはないから、もし誰かを不快にさせたら、謝ればいい。
そう思うことで、逆に、自分が嫌だなと思ったことも、受け入れられる。
人の間違いも許せるし、苦手な相手の中にも素敵な部分を発見することができる。
排除するより、受け入れて広げていきたい。
うわっつらでなく受け入れてもらいたい。
という考えで、積極的に線を踏み越えてきました。


それが、冒頭の穂村弘さんのような表現に出会うと、自分はなんで声を荒げてるのか、と思ってしまう。
なんでブログを書いてるのか。
Facebookからも遠のいたし、「会う」こと以外のコミニュケーションというのは、簡単ではないな。

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