2017年11月23日木曜日

植本一子『降伏の記録』は、まちがってる。

植本一子『降伏の記録』を読んだ。
写真家で、末期ガンのラッパーECDの妻。
もともとブログで夫ECDとの生活をせきららに書いたものが話題になり書籍化され、そこから数冊、日記形式の本を出版しています。

ECDも、数冊、本を出しています。
それらは、私小説のような自叙伝のようなエッセイのようなもので、細かく覚えてはいないけど、素直で簡潔な文章でとてもよかったな、という印象があります。
夫婦ともに、自分の生活について書いている。
そして、ふたりの生活は、一般的なものとはかけ離れている。
このこと自体、読み手の興味をそそります。

ECDの書くものは私小説風ですが、植本一子の方は、日記をベースにしているので、より生々しい。
手当たり次第なんでもかんでも書く!
という印象を受けるほど、おいおいそれ書いていいの?って内容を、書く。
なんでも書く、ってことは、キャッチーです。
例えば、夫のECDがいながら、何度も他の男性と恋愛をし関係を持ち、そのことをECDにも伝え、夫公認愛人のようなことになってる。
え?なにそれ?って、この夫婦について、そしてECDについて、興味を持たされてしまいます。
他にも、母との絶縁など、キャッチーな出来事がたくさん書かれています。
なんでも書く、ということでファンを獲得しているようでもあって、たしかにそれは魅力的なものです。



最新作『降伏の記録』は、今までのものに比べて、ずいぶん痛々しい。
自分のことしか考えられない、そしてそのことで自分自身も苦しい、というタイプの著者が、ドロドロした感情をそのまま書いてる。
内面をさらけ出す。
それは、たしかにすごいことです。
誰でもできることじゃない。
でも、果たして、自分の負の感情までもそのままさらけ出すことが、本当にいいんだろうか?
と、考えてしまいました。

例えば、ヘイトスピーチとか、あるじゃないですか。
朝鮮人死ね!とか、そういうやつ。
そう思うこと自体は、自由です。
きっと、死ね!なんて思うほどに、強烈な理由があるんだろうから。
でも、死ね!と思ったからそのまま死ね!って叫んだって、それは人に伝わらないわけですよ。
だからヘイトスピーチは、一般から賛同を得られない。

私小説や日記形式の本て、そこが分かれ目なんだと思うんです。
自分の考えを、一般に向けて「作品」として出すのであれば、一歩引いた視線が不可欠です。
思考や感情の揺れ動きを、単純に記録するだけでは、ヘイトスピーチと同じこと。
観察して客観視して、別の意味づけをしなければ、「作品」としては成立しない。
ただ思ったことを書くだけでは、それは「作品」ではない。
同じ思想を持った人にだけ共感される、サークル誌のようなものに過ぎないんじゃないか。

『降伏の記録』には、客観的な視点がない。
本を読む限り、植本一子は、極端に自己中心的な人のようです。
他人を思いやることができない。
自分は孤独でかわいそうな人間だ、という被害者意識にとらわれていて、あらゆる出来事を他人の責任にする。
そして、自分のそういう部分にも気づけていない。
本の中で、著者は他人を傷つける行動をたくさん取るんですが、それがぜんぶ正当化されてるんですよ。
自分は悪くない、という視点が、全体を覆っている。

自分を正当化し、他人をおとしめる負の思考回路は、誰にでもあるものです。
僕だって、あいつのせいで!って、それこそ殺してやりたいほどの憎悪が心に浮かんだことも、一度ならずあると思います。
たしかに誰もが経験する感情かもしれない。
でもそれをただそのまま書かれたって、やっぱりちっとも共感できない。
だって、負の感情が自分の心に浮かんだとしても、それは間違ってると、人を傷つける感情を肯定してはいけない、その思考回路では幸せになれないと、僕は思うから。
著者に似た、生きづらさを抱えたアダルトチルドレンのようなタイプの人であれば、共感できるのかもしれないけど。

さらに問題は、文章が前作までより格段に上手くなっていること。
文が上手いのは、もちろんいいことなんだけど、でも、今度はそこに作為が見えてきてしまって、それがひっかかる。
そもそも、なんでも書く、とはいえ、著者に都合の悪いことは選別して外してあるわけで、全体から作為がにじみ出てしまっている。
選別、というのは、エピソードだけじゃありません。
例えば、著者が夫婦ふたり分の確定申告に行った話。
ECDの年収の額は書くけれど、自分の額はぼかす。
しかもECDには事情があり音楽収入はかなり低く、自分の方がずっと稼いでいるのに。
さらっと書いてあるだけだけど、なんていやらしいと、思わずにいられませんでした。
そういう細部まで、自分をよく見せたい、という意識が浸透していて、作為ある文章によってエゴが増幅されているように感じられてしまうんです。

あとね、本の中で、編集者か誰かが、一子さんはECDの文章を受け継いでいる、って言うんだけど、おいそれは違うよ。
似てるのは、自分の生活をベースに書いている、っていう、表面的なことだけです。
ECDは、他人をジャッジしないし、文章にもエゴがない。
対象への視線に愛がある。
その姿勢は、作家と呼んでいいものだと思います。
対して彼女は、他人をジャッジする。
あの人はこう、って、自分の見方でラベルづけをする。
そして、自分に否定的なことを言う人は、悪者にして、切りすてていく。
愛がない。
自己承認欲求しか、感じられない。
ECDとは、まったくベクトルが違う。
植本一子は、作家ではない。
「毒親」ブームに乗った、少し文才のある、「アーチスト」というだけにしか、思えません。
本を読むかぎり、自分に意見する編集者を次々と切っているようなので、周りには信者しかいないのではないか。
だって、きちんとした編集者がいたら、こんな独りよがりの本にならないんじゃないかな。
祭り上げられてこれを書いて、それで本人が幸せになれるはずもないのに。


ちょっと言葉がきつくなってしまいました。
この本、面白いですよ。
でも、植本一子のやり方に、どうしても不快感を抱かずにいられないんです。
それは、僕も種類は違うけれど表現することをしているし、真摯に表現に向き合っている人たちを知っているからかもしれません。
これは間違ってる、絶対にこんなことはしたくない、と考えてしまう。
なにかを表現するって、自分の満足が目的になってはいけないと、僕は思うんです。
だから、こんなにも他者への愛がなく、自分の承認欲求しか感じられない作品に対して、ネガティブな気持ちが止められない。
これは、違うだろ。

もしいつか植本一子と会ったら、彼女に対して、ぜんぜん違う印象を持つかもしれません。
どんな人にだって、いい部分とよくない部分があるから。
でも、彼女がどれだけ素敵な人だとしても、この本は、違うよ。

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