『青年は荒野をめざす』はつまんなかった。『ジャズ・カントリー』は面白かった。

ブラックミュージックへの興味から、黒人文学をけっこう読んできました。
中野の図書館に通いました。
黒人文学って、名著とされるものでも書庫にしまわれてることが多くて驚きます。
古本を買ったりもしたし、雑誌のバックナンバーとか。
アメリカ留学中は、黒人文学のクラスを1年間取りました。
先生は、アフリカ出身の作家でした。
それでももちろん読んでない本もたくさんあります。
その中の一冊『ジャズ・カントリー』を、読みました。

なんでいまさら読んだのかというと、五木寛之の昔のジャズを扱った小説を読んだら、あまりにつまらなすぎて。
筋もシドニー・シェルダンばりにアホくさいし、まあそれはいいとして、音楽の描写がもう酷すぎる。
70年前後の時代って、ジャズは先鋭的な音楽で革命思想とも結びついて、ジャズは「ホンモノ」の自己表現である、みたいな風潮だったらしいけど、その描き方がね、もう大袈裟すぎて表面的すぎて紋切り型すぎて呆れ果ててついていけなくて、途中で読むのやめちゃったんですよ。
これにホントにみんな熱狂してたの?
なんなのみんなバカだったの?
って疑問が湧いて、その時代に本場の「ホンモノ」としてバイブル扱いされていたらしい、『ジャズ・カントリー』を読んでみたんです。

1964年に書かれて、日本では66年に出版されてます。
期待せず読みはじめたら、面白かった。
あの時代に書かれたものだから、黒人vs白人が強調されてるし、やっぱりジャズ=自己表現・自己実現みたいな考えが基調にあります。
でも、それが正しい、という妄信的な書き方をしていない。
音楽の描写も、とてもいい。
小説で描かれる音楽って、どうしても気取った比喩とかが気になって、あまりいいなと思うことはないんだけど、この本の描写は、すんなり入ってきます。
何が違うんだろう。
音楽への理解、なんてかっこいいことは言いたくないけれど、なんかいい。
少なくとも、五木寛之の、頭でっかちでカッコつけただけの、音楽の表面だけを搾取するような描写とは天と地の違いがある。
ように、思えました。

ジャズや黒人史に興味があれば、ナット・ヘントフの名前にはいろんなところで出くわします。
ただ、小説家、というわけではないし、いまいちどんな人かの像がない。
僕の大事な本のひとつ『私の話を聞いてくれ』も彼が手がけているけれど、それはインタビューをまとめる役割だし。
あとがきを読むと、この本は彼が初めて書いた小説だそうです。
他の著作も、読んでみたいな。


ジャズ・ミュージシャンとは、話が合わないことが多い。
だって、ジャズは高級な音楽で、他の音楽形式に比べて自由だ、なんて誇大妄想してる。
常に新しいことをやるべきであり、誰かのやったことを繰り返すのはダサい、なんて。
そうした考え方が、僕は嫌いなんです。
自分が偉いって思ったら、おしまいでしょ。
誰もやってない新しいこと?そんなものないよ。
音楽も含めた人間の行為は、変化はするけど、進歩なんてない。
あれは古い、なんて言って切り捨てて、自分はより優れた音楽をやってる、って思い込んでる。
優劣をつける人生なんて悲惨だし、そんな比較して優劣ばっかり考える音楽なんて、関わりたくない。
そいつらみんなジャズしか聴かないし、たまにジャズ以外の人と演奏しても、ジャズの語法でしか演奏しない、というか、できない。

って、その手のミュージシャンは、今の時代さすがに多くはないと思いますけどね。
それでも、ジャズの世界には、そういう下らない奢りが、まだこびりついてる。
それは、この小説が書かれた時代に、強烈に刷り込まれた思想なんでしょう。
かわいそうなジャズ。



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