Twitterよりプロレス

Twitter を見るのをやめました。
スマホからアプリを削除したんです。
いま持ってるアカウントはof Tropique のインフォメーション用なのでつぶやくことはあまりなくって主に見るだけだったんですが、いわゆる「リベラル」な意見には必ずネトウヨ的な誹謗中傷コメントがついてて、それが目に入ってくるのが前から嫌だったんです。
かつての2ちゃんねるみたいだな、と思っていました。コアな情報もあるけど、ほとんどはゴミみたいな書き込みばかり、という。
つぶやく時はパソコンからやればいいし、アプリを削除したおかげで、Twitterを開くこと自体なくなって、とても平穏に過ごしています。

きっかけは、Daigoの発言です。
ホームレスは死んでいい。役に立たないし汚いし有害だ。猫のほうが価値がある。これは自分個人の考えに過ぎないから差別発言じゃない。なんなら自分は高額納税者だからそのぶんホームレスを助けてる。
などと言う。
発言自体も最低最悪ですが、賛同する人間が大勢いるという事実に耐えられない。
Twitter にはそうした賛同者の意見もあふれてて、わざわざ読みに行くことをしなくても、同じ空間にいるという感覚になるのがもはやストレスなんです。
賛同者の多くは、自分で考えてその意見にたどり着いたわけじゃないんでしょう。Daigoのような「インフルエンサー」の過激な意見に便乗することでストレス発散してるんでしょう。
でもそうだとしても、僕は他人を笑う奴が本当に嫌で、関わりたくないんです。
Daigoがどんな奴か知らないけど、自分の意見なのであれば、どんな形であれ対話が可能かもしれません。でも便乗してる奴らとは対話すらできないだろうから。

最近は部屋にこもって曲作りをしていて、ほとんど誰とも会っていません。
of Tropiqueの活動を通じてポートランドにある音楽エージェント会社に曲を預けていて、どっかの企業が曲を使うとお金が入ってくるようになっていて、そこに預ける曲を量産したらいいことあるんじゃないか、と思ってやっています。
そういうわけで誰とも会わず家にいて曜日や天気もあまり関係ないし、その上SNSからも距離を置いて、これでいのか、という気にもなるけど、許せない発言に心をやられるよりマシでしょう。

そんな中、月末にプロレスを見に行きました。
小さいころ親に野球に連れて行かれた以来スポーツ観戦の記憶はなくって、もちろん初プロレス、しかもデスマッチ。
しばらく前にデスマッチレスラー葛西純のドキュメンタリー『狂猿』を見た流れで、知り合いに誘ってもらったんです。
テクニカルな技の応酬に魅せられました。そして、わざわざ画鋲の上を歩いたり蛍光灯を自分の頭で割ったり血みどろになって倒れても立ち上がる様は、相手と競い合うというより、自分の限界に挑んでいるように見えます。そんな人の姿を見たら、感動するに決まってるじゃないですか。デスマッチを見て勇気をもらった、という話を聞くのもうなずけます。
プロレスって、勝ち負けじゃないんですね。
もちろん、試合としては勝敗があるんだけど、たぶんそれが目的じゃない。だって、あきらかに避けられる攻撃も避けずに受けるし、とどめを刺せばいいのに刺さない。プロレスは
戦い様、もっと言えば生き様を見せる、ショウなんだな、と思いました。スポーツじゃなくって、音楽や演劇みたいな、ステージでの表現活動に近いんじゃないかと。
映画でも、ボクシングや野球を題材にしたものは多いのにプロレスものは少ないのは、敵を倒す、みたいな分かりやすい目的がないからじゃないかな。
ちなみに関係ないけど、『レスラー』は大好きな映画です。

オリンピックの諸々もあって、僕はスポーツ選手を軽蔑するようになりました。この日本では、スポーツこそ差別や暴力を助長する元凶にしか見えない。
だから今後もスポーツ観戦をすることはないでしょう。
でも、プロレスは、別です。

勝たなくてもいいじゃん。
「負けた」人や、あるいは自分にとってプラスにならないと思える人だって、ぜったいに価値がある。そんなの子供のころ読んだ絵本にも書いてあったでしょ。
いくらコロナだって、そんな大事なこと忘れる言い訳にはならないよ。




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