Dr.ジョンが死んだ

Dr.ジョンが死んだそうだ。
Facebookのタイムラインで、いろんな人がDr.ジョンの思い出を書いている。
最近は毎月のように好きなミュージシャンが死んで、そのたびにタイムラインが追悼投稿で埋まる。Facebookの友達には同じような音楽の趣味の人が多いからね。
一般には、Dr.ジョンなんて知られてないだろう。清志郎や内田裕也みたいに騒がれることはなくって、たぶんスマホの画面の中だけの話で、それも明日には落ち着いていくんだろうな。そういえば少し前にはレオン・レッドボーンが死んだけど、タイムラインでもあんまり見かけなかったな。

誰か死ぬたびに、すぐ追悼モードになって、その夜はその人の音楽を聴いて、でも毎月誰か死ぬし、みんななんて慌ただしいんだろう、って、いつも僕は白けて距離を置いていました。
死ぬ→追悼っていう単純な流れに、なんか違和感があるんです。
身近な人間が死ぬのとは違うわけで、会ったこともない、その人のことなんて何もしらない、その人が一生に演奏した音楽のたぶん0.00000001パーセントにもはるかに満たない分量の音しか聴いてないだろうに、追悼って、そんな気軽に毎月やれるほど軽々しいもんじゃないんじゃないの?なんて、どこかヒネくれて思ってしまって、たぶん一度も追悼めいたことを書いたことってないんじゃないだろうか。

でも今回は、なぜか書きたくなりました。
夜の演奏が早く終わって10時頃には帰宅して、Facebookを見たらみんなDr.ジョンの思い出を書いていて。知ってる飲み屋では、今夜はずっとDr.ジョンをかけるらしい。もっと早く、帰宅する前に知ってたら、行きたかったな。

他にもいっぱい好きなミュージシャンはいるのに、なにが違うんだろうと考えてみると、Dr.ジョンは、僕の音楽人生を方向付けた人なんだよな。
たくさんの人が書いてるように、僕も『ガンボ』を聴かなかったらこんなに音楽を追求しなかったろうし、ニューオリンズにも行かなかっただろう。
ニューオリンズというキイワードでいえば、その前に聴いていた細野晴臣のトロピカル三部作もあるけど、決定的に方向づけられたのは『ガンボ』だ。
そこから紆余曲折を経て、ニューオリンズに行き、そして今日もたまたまだけどニューオリンズ・スタイルのクラリネットを演奏をしてきた。
ミュージシャン、クラリネット奏者としての自分の中にはDr.ジョンがいて、さらにDr.ジョンが聴いてきた偉大な素晴らしいミュージシャンも、きっと僕の音の中にいる。


昔はロックだった奴が、なんだか人気商売みたいなミュージシャンになってしまったのを目の当たりにすることがあって、それは残念を通り越して、怒りともつかない、なんとも言えない気分になる。
彼のやってることは、もう音楽じゃない。それは言い過ぎかもしれないけと、少なくとも、僕や、若い頃の彼の思っている(いた)音楽とは別物、別世界だ。人気が出るって、音楽でお金を稼ぐって、なんだろう。

Dr.ジョンの訃報であらためて思ったのは、自分の信じる音楽しかやるべきじゃない、ってこと。これ、僕はわりと普段から考えてる方だと思うんだけど、それでも100%とはいかない。不本意な音楽に参加してしまって後悔することもある。
そういうことを、なるべく減らしたい。
ロックじゃないやつ、ソウルのないやつ、過去へのリスペクトのないやつ、正しい演奏をしたいやつなんかとは、一緒に演奏したくない。
こういうこと書くと、また誰かに怒られたりするのかもしれないけどさ、でもやっぱ、怒りがないと、本当にハッピーな音楽はやれないと思う。
音楽に限らず、表現っていうものは、なあなあでやるような甘いもんじゃないんだよ。


って、なんだかまた変なテンションになってしまった。
こんな風に自分の温度を変えてくれる人って、多くはいない。
一度でいいから、Dr.ジョンと一緒に演奏してみたかったな。



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