「型」がないほうが向いてる

琴をやってる女性の話を聞いて驚いたんです。
彼女は幼少から琴をやってて、上手くなって、ついに芸大に入ったんですね。そしたら、芸大の琴の先生は、それまで彼女が習っていた先生とは流派が違って、奏法なんかを全部変えなきゃならなかった。しばらく両方の流派の演奏法をやってたけど、大変なのでけっきょく芸大の先生の流派に切り替えたんです。
そのあとで地元の先生の発表会に出たら、もう流派が違うからと、楽屋を使わせてもらえなかったり、冷たくされたそうです。それまでずっと習ってたのに。

伝統芸能の世界では、よくあることなんでしょうか。そこまでしないといけないほどに、「型」を守ることは大変な作業なのかもしれないけど、僕には驚きでした。
そういう世界では、新しさや個性っていうのは、どのくらい許容されるんだろうか。同じミュージシャンであっても、音楽の中で大事にするポイントが、ぜんぜん違うんだろうな。

クラシックの世界でも、似たような話を耳にすることがあります。そもそも、誰に師事したかが重視されるわけだし、たぶん独学っていうのは有りないんだろうし。
クラシックの人とは交流がないからわからないけれども、もし僕がクラシックの曲を自分流に吹いて発表会に出たとしても、相手にしてもらえる気はどうしてもしません。

ジャズも、ちょっと近い。
昔は独学の人も多かったろうけど、今ではみんな誰かに師事したり学校に行ったりしていています。少なくとも日本には独学のジャズミュージシャンはほとんどいないんじゃないだろうか。
ジャズ奏者の中には、本当に「ジャズ」のことしか考えてなくて、ジャズの「型」を極めることに人生を捧げてるような人もいます。それはそれで美しい生き様だと思うけれど、そういう人は僕みたいなジャズの「型」のない人を、相手にしてくれないんですよね。それで寂しい気持ちになったことが、何度もあります。

ニューオリンズ音楽には、「型」がないんですよ。
だから説明もしづらいし、何を練習したらこうなる、みたいな具体的・教科書的なものが存在しないから、なかなか広まっていかない。
でも、きっと僕には「型」がないほうが向いていて、おかげでニューオリンズ音楽を追求してこれた。いまでは、どれだけ雑多なジャンルの音楽をやって、どんなリズムでどんなフレーズを吹いても、自分はニューオリンズ音楽の演奏家だと胸を張れるようになりました。

どっちがいい悪いはないけれど、もし僕がジャズや、あるいは邦楽をやっていたとしたら、とっくに音楽やめていたんじゃないだろうか。
そう考えると、自分に合ったものに出会えるって、幸せなことだなーと、つくづく思います。


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