考えなければ幸せなのかも

今月は、特に後半は、ほとんど家にいました。
映像に音楽をつける作業をしていて、部屋にこもっていたんです。
ずっと座ってるし、区切りがつくまでぶっ続けで作業して気づいたらヘトヘトだったりして、不規則で不健康な生活だったと思います。
あと僕の場合、曲を作ってると寝つけないんですよね。寝る時にも、曲が頭の中をめぐってアイディアを考えてしまう。朝も5時や6時に目が覚めて、そうすると曲が浮かんできてしまってもう寝られない。
もともと「作業」が苦手で数字が嫌いだし、宅録には向いてないんじゃないか。たまにクラリネットを練習するのがもはや息抜きみたいになっててなんか本末転倒な気がして、これでいいんだろうか、と思いながら、それでもいい音楽ができた時は嬉しいし、なんだかよくわからない。

演奏なんて、もうぜんぜんしてない。というか、人とも会ってません。
外出せず、人と会わずにいると、時間の流れを感じることがない。家の中では、寒さも暑さも天気もあんまり関係ないですしね。
いつかコロナが収束したとして、今までみたいに毎日だれかと話したり演奏したり、できるんだろうか。そうしたいと、自分は思うんだろうか。
ずっとクラリネットを吹いて人と演奏してきたのを、そうしなくなったら、それはもしかして第二の人生というやつなのか。
別に悲観してるとかではないんだけれど、まだまだぜんぜん終わりの見えない状況で、変に達観したような、あきらめにも似た気持ちになってしまいます。

オリンピックが近づいて、世の中にもあきらめが蔓延しているように感じます。
誰がなんと言おうが、過半数どころか多くの国民が反対しようが、オリンピックはやるみたい。IOCに至っては、仮に首相が反対したとしても日本に拒否権はない、という発言までしている。政府はあいかわらず疑問や質問にはまったく答えず、説明したり客観的な数値を示すこともしない。
緊急事態宣言もまた延長になったけど、以前と比べたら普通に外出してる人も増えてるし、飲食店の中には、もう行政には従わない、と宣言して営業再開するところもあります。
だって、今まで明確な根拠を示すこともせず説明もなしに特定の業種だけに”自粛”を要請してきたわけで、そんな理不尽なことにずっと従えというのは無理があります。
なんで劇場はOKで映画館はダメなのか。
同じデパート内にあっても、高級ブランド売り場だけ不要不急だからダメ、とか。
花見はダメだったのに、同じ公園でオリンピック観戦を行うのはいいのか。しかもそのためにわざわざお金かけて木を切って会場作りまでして。
そうした理不尽さの説明に使われる言葉は、抽象的な美辞麗句ばかり。
「日本」「絆」「勇気」といった言葉の持つ意味がどんどん変質していって、とっても汚い不吉なものに思えてきてしまう。
そして、入管やLGBTをめぐる問題や、文化庁長官の発言や、どこを向いても酷い話ばかり。
恐ろしい。

こんなにも地獄のような国に暮らしていたら、家に籠ってる方が安全なのかもしれないな。
僕はもう日本の音楽業界も嫌いだし、海外ばっかりに目が向いてるし、それはネットがあれば家でできるし、たまに人と演奏して気晴らしすればやっていけるだろう。
でも、それでいいんだろうか。
と、立ち止まって考えてみると、疑問を持ちながらの暮らしが一年以上も続いてるわけで、そうするとあきらめの気持ちが湧いてくるものなのかもしれないな、と思うんです。
洗脳の手法として、ずっとひたすら質問を浴びせ続けて思考を停止させる、というのを聞くけれど、それにも通じるのかもしれない。
こんな状況でも現政府を支持してるのって洗脳されてるようなものだろうし、洗脳されたら悩むこともなくなって、楽しくやればいいじゃんってただニコニコと疑問を持たずに演奏してれば、それはそれで幸福なのかもしれないけど、残念ながら自分にはそれはできそうにないな。

そういえば、口髭にしたこともあって、プロフィール写真を撮り直しました。
とてもいいのが撮れたけど、これを使うのはいつになるんだろうか。

(撮影:栗原論)


あと、「点線面」という雑誌に、錚々たる執筆陣に混じって文章を書きました。
コロナ禍の一年を総括するような、読み応えのある内容です。
本屋でも、もちろんネットでも買えるので、ぜひどうぞ。




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