俺はジャズじゃない

朝。
キップ・ハンラハンの「ディープ・ルンバ」を聴く。
いい。
この人の関わってるものは、全部それなりにいい。
なんとなく、日本では菊池成孔とイメージが近い気がする。どっちもインテリだ。
でも、菊池成孔の音楽にはまったく心が動かなくて、キップ・ハンラハンの音楽には心が動く。なんでなのか、と思ってたけど、それはたぶんきっと、肉体的なもの、つまりグルーヴや、あるいはソウル=魂のような要素の有無じゃないか、と、ディープ・ルンバを聞いて思った。ハンラハンの音楽は、他のアルバムでも、単純に演奏自体がとてもグルーヴィだし、ハーモニーとかの要素も、まるで何か意味を伝えるために配置されてるように思える。ミュージシャンの選択まで含めて、隅々まで、ハンラハンの「意志」を感じる。
菊池成孔の音楽を、実はしっかり聞いたことがないので語る資格はないんだけど、ハンラハンほどには、意志を感じない。感じたら、心に残ってるはずだから。

昼。
前野健太の新譜をceroのメンバーがプロデュースしたそうで、二人へのインタビューを読んだ。
ceroの人が、ブラッド・メルドーのハーモニーについて触れていた。なんか、嫌だな、と反射的に思ってしまった。ブラッド・メルドーのことは、ほとんど名前しか知らない。でも、先鋭的で最先端系のトップ・ジャズ・ミュージシャンということは知ってる。
そのハーモニーは、きっとものすごい斬新で新しいものなんだろう。そして、もちろん、それを研究することは、いいことに決まってる。皮肉じゃなく。
知的・斬新・最新、というようなことを、「モダン」ジャズの人はいつも考えてるように感じる。
そして、僕はそういう考え方が、どういうわけか、大嫌いで仕方がない。大学のジャズ課にいたときも、教授が、定番のコード進行などについて "boring(退屈、つまらない)" と表現するのが、ものすごく嫌だった。
なんで嫌なのか、わからない。でもとにかく昔から、何か表現をするにあたって、複雑さや知的さや新しさについて考えるということが、とても不純で間違ったことに思えてしまう。
ちなみにceroの音楽を、僕はちっともいいと思えない。初期のは、まあいいけど、それでも感動はしなかったし、最近のは、みんなすごいすごい言うし、実際に新しく画期的なものなんだろうけど、どういうわけか僕の心にはかすりもしない。
前野健太は、聴いたことないからわからない。前から、面白そうだな、とは思っているけれど、よし聴いてみよう、となったことがない。きっと、嫌いじゃないんだろうな、と思うんだけど、まあ今までタイミングが合わなかった、ということか。
さっき名前で検索したら、ビジュアルがメチャクチャいいね、この人。とりあえず見た目はすげー好きだ。

夜。
イグノランツの上村秀右と公園でリハーサル。
外が気持ちいい季節だ。
時間も気にしなくていいから、音楽の話をしながら、のんびりと音を合わせる。
尊敬するミュージシャン。
音楽にも人間にも、こんなにまっすぐ向き合う人は、なかなかいない。
心に正直に、身体を音楽に直結させて、最新も斬新もなく、泣くように叫ぶように笑うようにして、音を出す。
頭で考えることが、いかに下らないか、と思わせてくれる。
ハーモニー?リズム・パターン?スケール?
そういうことを考えて音楽やってる人たちは、分からない世界だろう。興味もないはず。

僕は、管楽器奏者だし、なんとなくジャズに近いような演奏もするけれど、ジャズ・ミュージシャンでは絶対にないし、ジャズ・ミュージシャンと言われることが、嫌だ。
たぶん、あえて言うなら、僕はロックだ。
それは、音楽性というよりも、精神性だ。
昔の、それこそ50年代〜60年代までの、つまりたぶんフュージョン以前のジャズは、僕にとってはロックだ。
今のジャズの大勢には、その感じが欠けてる。
キップ・ハンラハンにはあるけど、菊池成孔やceroにはない。
前野健太には、ありそう。


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